ひとり古墳部スソアキコ×暗渠マニアックスと歩く善福寺川

杉並の母なる川・善福寺川。西荻窪駅北部の善福寺公園内の池を水源とし、区のほぼ中央部を蛇行しながら流れる一級河川で、流域には多くの遺跡があることでも知られています。思想家の中沢新一氏は、善福寺川の湾曲を見たことが著書『アースダイバー』着想の一つのきっかけとなったそうですが、であるならば、この川は今日のまち歩きブームの原点となった場所だと言えるかもしれません。
今回はそんな善福寺川の中流域を、ひとり古墳部として活躍中のイラストレーターのスソアキコさんと、当サイトでもお馴染みの暗渠マニアックスのおふたり(高山英男さん、吉村生さん)と一緒に、それぞれの専門的知見を披露いただきながら歩きます。遺跡発掘現場をピンポイントに訪れる古墳散歩と、下を向いて川や水路の痕跡を辿る暗渠散歩。普段は交わらない視点が交錯しあい、様々な歴史を遡ります。
※上のイラストマップはスソさん作!ぜひ拡大してご覧ください。

散歩のスタートは、尾崎橋から。都内でも屈指の花見どころとして知られる善福寺川緑地周辺でも、この橋は桜の撮影場所として人気のスポットです(善福寺川緑地のコチラの記事を参照)。でも今回は、善福寺川は桜だけじゃないぞというのが裏テーマ。なのでその意味でも、敢えて象徴的スポットから始めてみます。左から、吉村さん、スソさん、高山さん。ウィズコロナ時代の散歩にも、マスクは欠かせません。カメラマンともソーシャルディスタンスを取ります。

尾崎熊野神社と田端神社

まず訪れたのは、尾崎橋から杉並第二小学校脇の坂をのぼって向かった尾崎熊野神社。縄文時代(およそ15,000年前~2,500年前)と古墳時代(およそ1,700年前~1,300年前:3世紀~7世紀)の土器片が見つかった場所で、境内を含めた周辺一帯が尾崎神社遺跡と呼ばれています。古代人の営みに思いを馳せるとき、外せない第一のスポットです。

入口にある案内板は必ずチェック。土地の成り立ちや神社の歴史をここで概観します。「地名の「尾崎」は、尾崎=小さな崎の意で、崎とは舌状にのびた台地突端部をあらわし、このあたりの地形に由来したもの」、「鎌倉時代末期に鎌倉から移住してきた武士が、代々崇敬する紀州の熊野権現をこの地へ勧請したのに基く」などといった記述を確認します。

参道の脇には、道角橋という、近くにあった橋梁の一部が。坂をのぼったこんな高台の場所に橋?と思うかもしれませんが、五日市街道付近にあったものが移設されたようです。実際に橋が架かっていたあたりには、後ほど訪問します。

スソさんは、「このあたり、旧石器時代(およそ35,000年前~15,000年前)はキャンプ地だったかもしれない」と言います。善福寺川の水の流れに削られながら形成されたこの一帯は高台となっているので、川を見下ろしながら焚き火などして石器を手入れする旧石器人の姿を想像します。

境内に立つ見事なクロマツの木は、こちらの御神木。樹齢約400年と言われ、区内でも有数の樹木だそうです。(ここが縄文時代から続く場所であることを考えると、400年といっても最近のことかなと感じてしまうほどですが…)

尾崎熊野神社
住所 杉並区成田西3-9-5
電話 03-3311-0105(大宮八幡宮)
御祭神 五十猛神(イソタケル)、大屋津比咩命(オオヤツヒメ)、抓津比咩命(ツマツヒメ)

次のスポットへ移動しましょう。善福寺川のほとりに出て、川沿いを歩きます。

やってきたのが、田端神社。ちょっとイレギュラーですが、今回は裏側から中へ入ります。

裏参道の灯籠近くで、スソさんが落ちているどんぐりを発見していました。どんぐりといえば縄文人の食べ物で、スソさんは縄文人の食べ物を見つけるのも得意です。

田端神社の拝殿です。このあたりは矢倉台と呼ばれる高台で、矢倉台南遺跡として指定されています。尾崎熊野神社の遺跡の台地とは善福寺川を挟んだ位置関係にあります。ここでも古代人が高台に暮らし、生活と祀りが近密にあったことが想像できます。

スソさんならではのメモが盛り込まれた地図を見せてもらい、川と台地の関係を改めて確認。

参道でふと横を見ると、埴輪の馬がちょこんと置かれていました。

境内はきれいに掃き清められていて、スソさんからは「近隣住民に大切にされていると感じられますよね。ここの桜並木もきれいですよ」と教えてもらいました。正面の鳥居から出て、次なるスポットへ向かいます。

田端神社
住所 杉並区荻窪1-56-10
電話 03-3391-4408
御祭神 菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)、天照皇大神(アマテラススメオオミカミ)、豊受比売神(トヨウケヒメノカミ)、大国主命(オオクニヌシノカミ)、大山祇神(オオヤマツミノカミ)

天保新堀用水などを巡り、スタート地点の尾崎橋へ

お三方が目指したのはすぐ近く、田端神社のはす向かいにある、マンションの入口でした。一見どんなスポットか予想がつきませんが、実は暗渠的にも遺跡的にもグッとくる場所なんだとか。

まずは吉村さんによる、資料の解説から。江戸は天保の時代、水不足を解消するため、村人たちの手で善福寺川から桃園川まで水を引く大規模な土木工事が行われました。天保新堀用水といわれ、今では記録も多く残されていますが、人力で用水のためのトンネルが掘られた、かなり珍しいものです(これもまた暗渠です)。
ここは旧新日本製鐵(株)の社宅があった場所で、昭和49年、その工事中に用水トンネル跡が見つかった現場。資料の下にある写真が、現在は埋められてますが、その発掘されたトンネルです。(桃園川の暗渠については、コチラの記事コチラの記事もぜひ。)

そしてスソさんからは、縄文時代の土器・鏃(やじり)・石匙(いしさじ)・石皿・ヒスイのペンダントなどの出土品が多く見つかっている場所でもあるということで、関係する画像を見せてもらいます。

ひとまずその場を離れ、再び善福寺川緑地の敷地に戻ります。天保新堀用水は、このあたりの台地を、穴を掘って通過していました。吉村さんが指差しているのは、その穴の入口と思しきところ。

天保新堀用水への熱い思いを抱きつつ、埋められたトンネルは歩けないので、善福寺川に沿って作られた別の用水、揚げ堀(田んぼに水を分けるための用水路)の跡の上を歩いていきます。ここにかつて水が流れ、その水が田んぼを潤していました。

しばらくすると、暗渠サインでお馴染み、車止めが並ぶのが見えてきました。

劣化してはいるものの、杉並名物・金太郎のイラストも残されています。

金太郎が続く一帯(このあたりは一度に見える金太郎の数が最も多く、金太郎ストリート、ともひそかに呼ばれているそうです)、つまり暗渠になっているところですが、ここで再び天保新堀用水が通っていたルートにぶつかります。

その一角、共立女子学園研修センター杉並寮の西側あたりには、水車も存在したそう。吉村さんによると、水車はそばに小さな祠(ほこら)があったと記録されているので、ちょうど写真のこのあたりにあったのでは、と推測できるのだとか。

『荻窪の古老 矢嶋又次が遺した「記憶画」』(杉並区立郷土博物館発行)

水車は精米などに使われていたそうですが、さらに付近に水車があったことの証拠となるのが、荻窪の風景を数多く描き残している矢嶋又次氏による「田端の水車」(昭和53年、左上の作品)。用水路の周りに広がっていた田んぼと、そのお米をつく水車。かつてのこのあたりの風景に思いを馳せ、心の目で水車を見つめます。

水車の余韻に浸りながら、歩みを進めて成宗弁財天社へ。用水の中継地として利用された池があったとのことで、立ち寄ります(湧水池の名残の池は、一般の人は入れませんが、ここの隣のマンション内にあります)。

資料に戻り、位置関係も改めて教えてもらいます。それにしても天保新堀用水は、カワウソに壊されてしまうという失敗を経るなど、ここに書ききれない様々な歴史が詰まったもの。詳しく知りたい方は、すぎなみ学倶楽部の記事や、吉村さんのブログなどをご覧ください。

さて、スタート地点の尾崎橋近くまで戻ってきました。ここで少し、五日市街道の歴史的スポットもいくつか訪ねてみます。

まずは、善福寺川左岸側の小道を少し進んだところにある、馬頭観音塔へ。旧五日市街道沿いで、「尾崎の七曲り」と呼ばれた難所のひとつと考えられているところです。

「尾崎の七曲り」については、先ほどの矢嶋又次氏もスケッチを描き残しています。川と台地の高低差ゆえ、こうしたジグザグの道になっていたといいます。

そしてここは、同じく七曲りのひとつで、熊野神社の参道に一部保存されていた道角橋があった場所。高山さんに無理を言い、橋がどう架かっていたかを全身で表現いただきました。

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※本記事に掲載している情報は2021年03月12日公開時点のものです。閲覧時点で情報が異なる場合がありますので、予めご了承ください。