荻窪の老舗ラーメン店・春木屋二代目店主に聞く | なみじゃない、杉並! -中央線あるあるPROJECT-

荻窪の老舗ラーメン店・春木屋二代目店主に聞く

荻窪ラーメンという固有名詞を全国に知らしめた、不動の人気店「荻窪中華そば 春木屋」。1949年創業というこの老舗の名は、グルメファンならずとも多くの方が一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。今回話を伺ったのは、店の二代目として長らく厨房を切り盛りしてきた今村幸一さん。その歴史などとともに、客足が途絶えないための隠れた努力など、東京を代表する名店ならではのエピソードをたっぷりと語っていただきました。(取材協力:ラーメンライター・福岡岳洋氏)

春木屋の誕生

―今日はお忙しいところ、ありがとうございます。まずはお店の歴史などについて、基本的なところからお伺いしたいと思います。

今村:1949年に先代が店をオープンして、私が二代目、実家は長野です。

―長野のどの辺りですか?

今村:天竜下りで有名な天竜峡のそばです。

―長野県の西南の方ですね。

今村:そうですね。まず親父たちが東京に出てきたときに、何かしなくちゃっていうことで「蕎麦がいいんじゃないか」と。ただ日本蕎麦だと、いろんな設備投資が必要だし、それがなかなかできない時代だったから、「ラーメンを」ということだったようです。

―もともと長野で蕎麦屋をやられてたんですか?

今村:いや、(先代の)兄貴が東京でやってました。

―なるほど。

今村:それで田舎から出てきて、しばらく(先代が)兄弟に世話になりながら、鍋釜があればラーメン屋ならできるなということになったそうです。そんなことでこの店を荻窪に開きました。

―それでラーメン店なんですね。店名の由来は?

今村:田舎では一つの集落みんなが同じ苗字なんですね。周りが全部「今村」なんで、それじゃ困るっていうので、家ごとに屋号がつきました。それでうちの屋号が、たまたま春木屋だったんです。それで春木屋という屋号でこのお店を出したといういきさつを聞いています。

―そうなんですね。ちなみに、現在も荻窪に店を構える「春木家本店」さんとは血縁関係にあるのですか?

今村:親戚です。みんな兄弟で、うちの先代が一番下なんですよ。説明しますと、荻窪にお店はまずふたつあった。ひとつが日本蕎麦屋で、もうひとつは、もうやめたんですけど、中華料理屋。で、違う業種がいいということで、うちの先代はラーメン専門店を始めた。

―なるほど。そういえば、餃子の春木屋さんというのもありました。

今村:中華料理の春木屋さんだったところが、餃子専門店に変わりました。

―そういうことですか。

今村:兄弟ですけど、独立採算でやってますから。だから、みんな本店なんです。

―なるほど。

今村:だから私のところは、この青梅街道のところに、陸橋(りくばし)があるんで、親戚からは「陸橋(りくばし)」と呼ばれていました。

―荻窪という場所を選ばれたのは、やっぱり先に蕎麦の…。

今村:ええ。兄弟がやっていたので、たまたまこのお店も運よく借りられて。戦後すぐの時代ですのでね、備え付けの屋台で始めました。

―二代目がお生まれになられたのはいつですか?

今村:1947年です。

―ということは、オープンの2年前ですね。

今村:そうですね。まだ家が親戚の中華料理店の裏にありました。

―小学校とかもこの辺りなんですか?

今村:そうです。出身小学校は、もう廃校になりましたけど、若杉小学校です。

―同じく荻窪に古くからあるラーメン店「丸福」さんのお兄さんの方と同級生だったというお話も聞いたことがあります。

今村:「丸福」さんは兄弟が多くてね、5~6人いたのかな。そのうちの一人が私と同級だったんです。いまのうちの店の並び、5~6軒先にもあったんです。駅前にもあって、昔は2軒ありました。

―ほかに同級生でラーメン屋さんっているんですか?

今村:ラーメン屋じゃないですけど、物販とかはいましたね。若杉小学校は商人の学校だったんですよ。みんな兄弟もたくさんいましたから、クラスも10クラスくらいあって。1クラス50~60人ですからね。

―そうですよね、ちょうど高度経済成長に向かう時期です。

今村:お店もほとんど無休。冠婚葬祭以外、休みがなかった。そういう時代です。それがだんだん、毎月1日とか20日とか、休むようになっていった。

―そういう時代の話って、今ではなかなか聞くことできないと思います。

今村:その頃の荻窪って、食べ物屋はあまりなかったんです。

―え、そうなんですか?

今村:ええ。ラーメン屋とか、限られたものしか。物販がほとんどで。

―物販っていうのは、飲食店以外ってことですよね。

今村:そうですね。今、駅前にルミネとかタウンセブンがありますけど、あそこは火事で一部燃えたときにビルになりました。その前は新興マーケットって言って、昔からの闇市みたいな市場がありました。吉祥寺のハモニカ横丁みたいな。

―そうだったみたいですね。

今村:だから食べ物を買うことに関しては、あの頃の荻窪はすごかったですよ。荻窪の新興マーケットは安いからって、遠くから皆さん買い物に来てましたからね。

―ああ、そうなんですか。中央線沿線の人たちでしょうか。

今村:そう。やはり口コミでね。新興マーケットは当時、かなり有名でしたよ。

―そうなんですね。それで時代が1960年代に入り、東京オリンピックがあって、高度経済成長が進んでいく中で、外食文化みたいなものが少しずつできてきますよね。

今村:その前は、逆に物価が安定してたんですよね。オリンピックの頃は(東京では)ラーメン一杯40円くらいだったと思います。その後50円になって、それからポンポンと上がっていった。

ラーメンの地位をひとつ上げたい

―二代目がお店に本格的に入るようになったのは、いつ頃ですか?

今村:中学の頃にアルバイトはしていました。

―あ、そうなんですね。春木屋さんで、ですか?

今村:はい。ただ、お店には出ないで、裏で仕込みを。自家製麺ですので、麺作りを手伝ってたりして。高校生になってもやってました。

―その頃のラーメンが、だいたい40円くらいですか?

今村:そうですね、まだまだ安かった時代じゃないですか。そのあとは、上がるインターバルが早いんですよ。飛んじゃうけれど、バブルの頃は特に物価の上昇がすごかったですよね。

―バブル時代というと80年代ですが、この頃にいわゆる「荻窪ラーメン」にマスコミが注目するようになったという話が有名です。

今村:その前に、映画監督の山本嘉次郎さんという方が70年代に初めてグルメ情報を本にまとめられました。いわゆるグルメ情報誌の走りですね。その中のラーメン部門で、はじめてうちのラーメンを載せてくれました。まだラーメンは地位が低かったにも関わらず。

―ラーメンの地位が低い時代?

今村:汚いとか油っぽいとか、立ち仕事で大変そうだと。私も学校を卒業して店に入ってしばらくやってると「ああ、ラーメンっていうのはこういうものか、かなり地位が低いんだな」と感じるようになって。それで、私もプライドがありますから、ラーメンの地位をひとつ上げたいということで、やってきました。

―なるほど。

今村:働く人も、今では大学生とか、大学出た人とかもいますけど、昔なんて中卒とかばかりですしね。ホテルのレストランにだって、今はメニューにラーメンがあるじゃないですか。

―ありますね。高級中華料理屋に行ってもありますね。

今村:昔は絶対なかったですからね。それくらい今はグレードが上がったんですよ。

―ほう。そうですか。

今村:ただその前も、徳川夢声さんや向田邦子さんがうちのファンで、来てくれてはいました。私が大学生のときには、向田邦子さんが『ただいま見習い中』という30分のドラマの脚本の中でうちを取り上げてくれた記憶があります。

―そうか、おふたりとも荻窪に住んでいました。二代目が大学生というと、ドラマは1960年代の終わり頃ですか?

今村:そう、たしかここで撮影もしたはずです。もちろん改装前ですが、座敷でご飯食べたりして。

―それは貴重なお話です。

今村:あとは、山本嘉次郎さんの本の題字なんかを手がけていた伊丹十三さんの映画『タンポポ』でもロケで使われました。このときはすごかったですよ。もう丸一日、スタッフが7、80人…。

―クルーがわっーと来たわけですね。で、テレビで「荻窪ラーメン」として取り上げられるようになるのはおそらくこの頃ですよね?

今村:そう。ちょうど青梅街道沿いに、うちと丸福さんがあって、その真ん中にね、佐久信さんっていう店があった。

―糸井重里さんのキャッチコピー「突然、バカうま。」ですね。

今村:そうそう。『愛川欽也の探検レストラン』という番組で取り上げられました。「この飲食店を何とかしよう」っていう番組の走りですよね。

―当時行列のできる春木屋さんと丸福さんに対して、佐久信さんはイマイチ人気がなかった(笑)。そこに、テレビのテコ入れがあったのでした。

今村:そうですね。それからは3店ともすごい行列ができるようになりました。隣の相手のお店までずーっと並んじゃうようになった。その頃から、ラーメンの街って言われるくらいになったんだと思います。

―映画『タンポポ』も、中で出てくるお店のモデルはその佐久信さんだったと言われています。

二代目としての意気

―二代目がお店を継がれたのもこの80年代ですか?

今村:私が本格的に継いだのは、2階屋だった旧店舗をビルにするというタイミングですから、86〜87年頃ですかね。

―おー、まさにピークの頃なのですね。

今村:あの頃はどこでも言われていたと思うんですけど、ビルにすると味が落ちるとかね(笑)。

―はあ、そんなこと言われちゃうんですか(笑)。

今村:それで、できるだけ旧店舗と同じようなカウンターにしたりとか。それじゃなくても、まだ先代が元気でいたのでね。私なんかがカウンターのところに立つと、常連のお客さんに言われましたもんね。「まだまだだな~」とかね(笑)。ま、冗談もありますけど、そういうのを越えていかないとダメですね。

―なるほどねえ。

今村:これは二代目やった人じゃないとわからないでしょうね。

―はい、想像しかできませんが、わかる気がします。

今村:私はまだ自然と二代目になる時代だったんですが、それでも色々と大変でしたよ。最初はね、何気なく(お店に)入るんですよ。何でもそうじゃないですか、でも、だんだんやってるうちに深くなっていく。ただ(ラーメンを)作ればいいっていうところから、腕を上げないといけなくなる。教えてもらうだけでは絶対にダメで、よく言われるように見て盗むとか、そういうものがないと次に行けない。

―まさに職人さんの世界。

今村:同じものを売るのが一番楽なんですよ。10年前これを売ってましたって、それを売る。でも、今の時代、そのまま売ったって絶対ダメなんですよ。物がありすぎますし。

―それはそうですね。

今村:今はサイクルが早いですからね。商売やるのは大変だと思います。物販でも、食べるものでも、どの分野でも。先代から継いだものをそのままやっているのが一番楽です。ホントに。

―うーん、そんなものですかね。

今村:要するに駅伝みたいなもんで、たすきをどうやって次に渡すかなっていう感じですよね。たまたま私は先代がいて、種つくってもらって、それで、その幹をいかに太らせ、枝にしていくか…。花も多少咲きましたけど、まだまだ…永遠ですね、うん。

―永遠ですか…。でも本当に歴史があって多くの著名人にも愛されて、そういう中で…。継いでいくということのプレッシャーも並大抵ではないのでしょうね。

今村:そうですね。やはり「これでいいのかな」っていうのは常にありましたね。あとは、次から次に業者から新しい材料みたいなのが来るんですよ。「次にこういうものができたんで、やってみて」って持ってくる。それを店の裏で試してみてね。うちのこの一杯のラーメンに使えるかどうかと。それはやはり、一日二日、一週間では決まんないですよね。商品に入れるためには最低でも半年から一年はかかる。何か粉でももらったりしたら、麺にどう入れてみるか。美味しくなればいいんですけど、合う合わないもありますし。そういうのは日夜やってましたね。この店も2年後には創業70年になりますけど、それをやってきた結果が、今日なのかなと。

―重い言葉です。

今村:商売ですのでね、赤字じゃどうしようもないんだけど、でも続けることが次につながるんです。で、お金は次なんです。結果なんですよ。儲けたいとか思う人は、チェーン店を考えればいいことでね、その器がありますから。私らにはそれほどの器もないですけど、そもそもチェーン店は嫌ですよね。やはり味が安定しないんです。「あっちの味とこっちの味と違うよ、本店の味と違うよ」って、やっぱりあるんですよ。

―そうですよね。

今村:だから、商売なんだけれども、金儲けするのか、味にこだわるのかっていうね。

―やっぱりチェーン店をやったらどうかっていう話はあったりしたんですか?

今村:ありましたよ。

―銀行からお金貸すよとか…。

今村:知り合いとかお客さんから、空いてるお店が新宿にあるから、銀座にあるから、とか。

―分店が福島の郡山にありますが、いわゆる分店はそこだけですか?

今村:そうですね。修業とかそういうのはね、このビルを建てた後、しばらくしてなくしたんですけどね。

―ああ、なるほど。なんで春木屋さん出身の人の店って、あまり聞かないんだろうって思ってたら、そういうことだったんですね。

今村:ただ修行してお店を持たせるっていうのはね。やっぱり人格が大事です。ただ作って売るだけじゃなくて。お客さんへのサービスとか、そういうこともできないとダメですよ。基本的にお店を持つということは、そういうことなんでね。

―ええ。

今村:店を出すためには、背中に大きいものを背負わなくちゃいけないじゃないですか。失敗したら大変じゃないですか。そのためには、そういうとこまでできないとダメですからね。よその店で休憩もなしに10時間とか働かされていた人がうちに来ても、だいたいダメでした。ただ乱暴でね。そういうことが「売りさえすればいいんだ」っていう人にしてしまう。もう少し人間的なものがないと。

―知り合いが子供の頃、父親に連れられて春木屋さんに来ると、並んでるからって父親が急かすんですって。そうしたら、先代だと思うんですけど、「坊主、ゆっくり食え」ってフォローしてくれたと。その知り合い、それ以来ずっとここに通ってるそうです。売りさえすればいいっていうのを否定するのは、昔からなんでしょうね。いい店にしたいっていう雰囲気づくりとか。

今村:先代はシンプルに「美味しいラーメンを食べさせたい」というのがありました。まずかったら食べに来てくれませんのでね。ラーメンしか置いてないですし。命を懸けるっていったら大げさですけど、来てくれなかったらお店は終わりですからね。先代は、そこに一番、自分の生きがいを持っていたのかな。もう単純に美味しいラーメンを出して、お客さんがそれで幸せになってくれれば、それが一番嬉しいっていうことなのかな。

―とにかくそれに尽きますよね。

今村:あと、私の幼い頃の記憶では、先代はどこそこのラーメンが美味しいとお客さんから聞いたら、必ずそこに行ってましたね。新宿とか渋谷とか。それで、行って何を見るかっていうと、まあラーメンは食べるんですけど、お手洗いですね。「お店に入ったら必ずお手洗いに行きなさい。そこを見れば、そのお店の厨房がキレイか汚いか、判断できる」と。これは今もみんなに言うんですけど。

―お手洗いは、そうですね、店の顔っていう話もありますね。

春木屋にはラーメンしかない

―二代目は、いわゆる「時代の味」みたいなのは、どういうふうにキャッチしているんですか?

今村:アンテナを張って、今どういうものが流行っているか、探します。それで極端に何かを変えるわけではないですが。新しいものが出来たらそれがうちのラーメンに合うか合わないか、常に研究します。さっきも言ったように、結構時間がかかるんですけどね。

―長いと一年かかるとおっしゃってました。

今村:合うものであれば、味を次のランクに上げる。これでいいんだとなれば、知ってるお客さんにも食べてもらったり。

―試行錯誤しながら…。

今村:そうですね、土俵に上がったら、あとはどうやるかなんです。だから土俵に上がれるか上がれないかで、もう決まっちゃいますね。すぐにダメだっていうのが出ちゃうものもありますけど。

―試してみて、「これはダメだ!」と。

今村:ラーメンってね、小さいんですよ、器が。そもそもどんぶりが小さいですけどね(笑)。

―そうですね(笑)。

今村:単に器が小さいから、余計なものは、はみ出るっていうかね。要するに、小さい中でとんがっちゃうものはいけないんですよ。スープと麺がそれぞれ50%ずつで、それに対して、あとはトッピング。トッピングは、まあ、お金取るためだけだったら、エビだのカニだの入れればいいわけですが(笑)。それにしてもラーメンは飽きない不思議な食べ物です。だからそこはね、お客さんに次に来てもらうためのラーメンっていうのはどういうものか、常に考えてる。

―たかがラーメン、されどラーメン、ですね…。

今村:例えば夏場の麺は、気持ちですが、やや細くするんです。見てもほとんどわかりませんが。やはり人間は、暑さの加減で体が弱る。だから、気持ち細い方が、のど越しがいいんです。簡単に言うと、そういうような研究的なことはしっかりやりますよね。ほんのちょっとのことなんですけど。そういうことで美味しく食べていただくっていうのは、ありますよね。

―微妙なところにどれだけ気を遣うかっていうことですね。

今村:使う材料、例えば同じ煮干でも、同じところからずっと取り続けるということはしません。その時その時、季節に合わせて、いいものを選びます。同じ漁港からのものであっても、年によって状態が違うので、業者さんから取ったときにちょっと出してみて、量の加減をしたりしながら。そういうことも「時代に合わせる」ということにつながってくるかもしれませんね。

―ああ、結果的にそうなんでしょうね。

今村:日本には四季があるじゃないですか。で、旬というものがあるじゃないですか。キャベツでもタマネギでも、どんなものでも同じようにしてやんなくちゃいけないのが難しいところですよね。製麺でいうと、雨の日、雪の日、蒸し暑い日、大手企業なんかと違ってちゃんと空気を切り替えるとかできないから、自分たちで調整する。大変ですよね。

―温度や湿度を自分たちで常にチェックしているわけですね。それは大変です。

今村:長くやってるといろんなお客さんがいるわけじゃないですか。すごく久しぶりに「何十年ぶりに来たよ」というお客さんとか。そういう方に、「昔と変わらない、美味しい」とか言われるとね、こっちからすれば「やった!」と思いますよ。先代の頃と同じ材料はないけど、それを補いながらやって、で、そこからさらに試行錯誤しながらやってるわけです。だから、「昔と同じ味だね」って言われるのは、嬉しいですね。

―変わらないために変わり続ける、というやつですね。

今村:いや、ホントね、ラーメンしかないのでね。さっき言ったように命を懸けて、魂を込めて作っていかないと、ダメなんですよ。

―力強いです。そこはぶれないわけですよね。店を大きくしていこうとも思わず、ひたすらラーメンだけで愚直に行こうと。

今村:そうですね。あとはやっぱり、できることにも限界がありますからね(笑)。「広く大きくやる」っていうやり方もありますけど、私なんかは、やらなくて良かったと思うんですよ。やり方次第では大きくもできましたけど。これからの日本は働き手も少なくなるみたいですし、そういうことを考えるとね、大きくしたはいいけど、じゃあ、次にバトンタッチする人が、という話になるじゃないですか。だから、そこそこでいいと思うんです。人生ってね、長いようで短いですしね。ほどほどでいいんじゃないんですかね(笑)。

取材を終えて〜三代目の決意

この取材では、現在は春木屋吉祥寺店を任されている三代目の今村隆宏さんにも話を伺いました。隆宏さんは、大学卒業後はサラリーマン生活を送っていましたが、ダブルワークとして居酒屋でアルバイトをしながら、サラリーマンと飲食業の世界の違いを体験し、自分にはどちらが向いているのか、探っていたこともあるそうです。そんな隆宏さんが家業を継ぐことになったきっかけについて、印象的なことを話してくれましたので、最後にご紹介したいと思います。

「大学を卒業して働いていたときは、ずっとその会社でやっていくのかなと思っていた時期もありました。けれど、それが変わるきっかけをくれたのも、実は春木屋のお客様なんです。勤めていた会社の先輩や関連会社の方に、自分が春木屋の出身だという話をしたとき、昔行ってた、今も行ってる、みたいな話をしてくださった。そういう、自分が家にいた時に見ていた春木屋とは別のところにある春木屋、自分が外に出て全く関係のない人間関係の中で、「今も行ってるけど美味しいよね」とか「子供の頃に家族とよく行ってた」とか、そういった話として出てくる春木屋を、純粋にすごい店だという価値を感じられたのが大きかったんです。ですから、来てくださるお客様がいる限り自分も後を継いで、それに応えていきたいな、いくべきだな、と思ったのです」。

荻窪中華そば 春木屋
住所 杉並区上荻1-4-6
電話 03-3391-4868
営業時間 11:00~21:00
定休日 不定休

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※本記事に掲載している情報は2017年06月08日公開時点のものです。閲覧時点で情報が異なる場合がありますので、予めご了承ください。