昭和30年創業 荻窪邪宗門の店主に聞く

JR中央線荻窪駅北口から徒歩1分、商店街の中にひっそりと歴史を告げる細い木製ドアを開けるとほんのり漂うコーヒーの香り。 女店主として長年店を切り盛りし、今も現役で店に立つ風呂田和枝さんに、グルメ系インスタグラマーとして活躍中のシゲタツヨシさんがお話をうかがいました。

昭和30年創業 荻窪邪宗門の店主に聞く

写真現像屋から喫茶店に。

シゲタ:まず、この邪宗門という喫茶店を始める前なんですけども、もともと写真を撮ったり現像したりするお店だったということですが。

風呂田:カメラがね、趣味だったから。まあ半分仕事みたいな。たまたまここが空いてまして、それじゃあってんで、借りることになって。DPE(※1)ってご存じ?それでね、始めたんですDPE。それから半年もしないうちだったかな、カラーフィルムができて。それで写真も、機械で一度にばーっとできるようになって。それまでは一枚ずつ現像して焼き付けして引き伸ばしして。それから一枚ずつ洗ってヘル板(ばん)っていう(※2)、写真がきれいに出るように、乾かす金属の板ね。そのきれいに磨いたヘル板に、水玉ができないように伏せてカバーをかけて、そして電熱器で乾くようにするの。そういう仕事を、それまで手作業でやっていたのが、カラーになって機械化されて、追いつかなくなって。だからもう、やめようかどうしようかってときに、吉祥寺で邪宗門っていう喫茶店をやっていた、友人の名和さんが吉祥寺のお店から引っ越すことになって。その引っ越しの合間で、あたしたちにコーヒーの淹れ方などを教えるから、喫茶店を始めようよ、って誘われたの。仲間をひとり増やしたかったのね。

※1 DPE : 撮影した写真フィルムの現像・焼き付け・引き伸ばしのこと。そのサービスを行う店がDPEショップ(いわゆる写真店)。
※2 ヘル板 : フェロタイプ板のこと。印画紙の表面につや出しをするための乾燥機(フェロタイプ乾燥機)で使用する金属の板。

シゲタ:最初の邪宗門は国立だと思っていましたが。

風呂田:最初は名和さんは吉祥寺でやってましてね、その後国立に引っ越すわけ。その間に名和さんが、いま手が空いているから教えるよ、って。その頃、主人は体が弱くて、いつ死ぬかわかんないなんて言われてたの。喫茶店なら、あたしが一人でできるから、じゃあやろうよって、それでお店を作ったんです、ここに。それまでは一階がDPE、二階が寝室だったのを作り変えて。
で、店が出来上がって、じゃあサバット(フランス語で靴)って名前の店にしようって言ってたんです。主人が考えたんですけどね。そしたら名和さんから、おんなじ名前にしましょうよ、っていう勧めがあって、「邪宗門」って (名前を)もらっていいの?って言ったら、いいって言うから。それで、邪宗門の二号店を始めたわけです。

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和枝さんが、店内でコーヒーを飲むのは、階段をあがったすぐのテーブル席。

シゲタ:「邪宗門二号店」という名前にしなかった理由はあるんですか?

風呂田:他にも次から次に(邪宗門が)できるなんて考えてもみません。その時はうちだけでしたから。そのうち、名和さんも国立に空きを見つけて、その改築をしている間にね、うちの方が先に店を始めたの。

シゲタ:なるほど。吉祥寺邪宗門があって、国立に移転する間に、荻窪邪宗門ができたと。そういう流れですね。ところで名和さんはマジックをやっていらしたとか。

風呂田:そう、名和さんが国立に行ってしまったから、吉祥寺のお客さんが行き場がなくて、うちに来るようになったわけですよ。名和さんはマジックをお客さんに教えていたもんですから、そのお客さんたちが、荻窪でマジックをやるようになって。主人も、じゃあ自分もマジックをやろうか、ってなって。それまではマジックなんてやったことないです。

シゲタ:名和さんとご主人はご同郷なんですよね?

風呂田:はい。古いつきあいで。戦争中は船の無線技師でね。無線技師の友達で、名和さんのところに集まってラジオを作ったりしていたの。名和さんの方が年上でしたね、戦争にいきましたから。

シゲタ:この荻窪邪宗門は昭和30年創業ですよね。お店を長く続けて来られた秘訣があれば教えていただけますか?

風呂田:ほかに能がなかったから(笑)。それだけ。だって、ほかに収入がないでしょう?名和さんが長い間喫茶店をやっていたのとおんなじで、私たちも、ここでコーヒー屋を始めて、そのまんまですよ。

シゲタ:今、飲食店の廃業率はとても高いそうです。3年間で70%が無くなっちゃう。5年で80%。そんな中で、長く続けているってやっぱり並大抵のことじゃないな、と思っているんです。

風呂田:それはもう、赤字ですよね。こんな時代になってから。だけどまあ、息子たちが助けてくれて。援助があったからできたんです。あたし一人じゃね、とても持ちこたえることはできなかったですよ。

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人ひとりがやっと上れるほどの階段。和枝さんはこの階段を上り下りしてお客様にコーヒーをお届けしている。

店の移り変わり

シゲタ:喫茶店はもともと一階だけだったんですよね。

風呂田:二階は住まいだったのを、建て直したんですよ。一部三階にして、住まいをそっちに移して。それで店を広く増築したの。(店を始めて)二年くらい経った頃かな。

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シゲタ:お客さんの流れとか、移り変わりはどうですか。
直近でいえば、コロナが流行る前後ではどうですか。

風呂田:(コロナの)最初はね、全然お客さんが、来てくれませんでした。最初は(コロナが)どんどん広がるし、店もやれないし。店をやってもお客さんは来なくてね。ずいぶん長いことね。

シゲタ:逆に、すごくお客さんが多かったときとか、印象深かった時代はありますか。このときはすごく活気があったとか。

風呂田:喫茶店はあまり変わりはないですね。昔は喫茶店に行かなければコーヒーは飲めなかったの。それがだんだん、いいインスタントなんかも出てきて、ご自分で淹れるようになって。そういうこともありますけどね。でも、おかげさまでね、そんなに減ったわけじゃなかったと思うんですね。だけどやっぱりコロナのときはね、ぐーっとね、もう、店は開店休業で。
でもね、主人が亡くなってから、あたし一人になって、営業時間がだんだん短くなってね。主人がいた最初の頃はね、朝は10時からでしたね。人も雇っていました。その頃はウェイトレスって言ってたんですよ。昼と夜とね、二人交代で。主人も店に入ってました。昔は、夜は、みんな遅かったんでね。この近所は終電くらいまでやってて。まだ今のバス乗り場あたりに家や商店がある頃、ご存じないでしょう。ここから交番の向かい側までずっと家や商店がありました。タクシー乗り場はまだなくて。今はビルがありますけどね。ここらあたりは、全部平屋か高くても二階建てくらいのお店で。

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荻窪駅北口再開発ビルオープン昭和56年9月 杉並区広報課

タウンセブンができたあたりで、ずいぶん変わって。それまではね、平屋のマーケット。吉祥寺の北口にありますね。ハモニカ横丁っていうの?ああいう感じ。吉祥寺のはいいですね、あれはね。

邪宗門なかま

シゲタ:ところで、世田谷や下田(静岡県)などの邪宗門さんと交流はあるんですか。

風呂田:下田は遠いから行ったりきたりはできません。世田谷はご自宅をお店に作り変えて。みんな名和さんに一からコーヒーの淹れ方を教わって始めてね。石内(新潟県)は、世田谷のマスターがスキーが好きで、スキー場で知り合った方が始めたんですよ。高岡(富山県)は、世田谷のマスターの出身地です。今は二代目ですかね。もう、みんな年ですから、生きていられるのが不思議なくらい。まだ生きてるの、って(笑)。あたしなんかもうオバケですよ。

シゲタ:いやいや(笑)。この邪宗門を、この先残したい、っていう思いというのは…。

風呂田:世田谷や石内はお子さんがやっていますし、下田はマスターの奥さんがやっていますね。うちは、いま一階にいる彼がやることに決まっています。あたしの孫だってお客さんには言っています。

シゲタ:メニューとか、お店作りのこだわりについてお伺いしたいです。

風呂田:それはね、国立のマスターが作ったのよ(笑)。最初はね、メニューは国立と同じもの。だってあたしたち、写真屋でしたから自分でコーヒーも淹れたことなかったし。世田谷とか下田とかほかのお店もみんなそう。でもみんな好きだったんですね。コーヒー屋がね。
オリジナルのメニューは、めいめいの店であると思います。みんなおんなじようで、個性が強い人たちですからね。自分でやりたいコーヒーを考えて、新しいメニューを作っていますね。「邪宗門ブレンド」もね、お店によって違うのかな。豆はね、うちは、たまたま国立の豆屋さんが、のれん分けして、うちのすぐそばに来てね。そこから、とるようになったの。でももう亡くなってお店をやめるとき、今の豆屋を紹介してもらって。

荻窪の街で、これからも。

シゲタ:荻窪でよく行く飲食店とか、仲良くされているお店はありますか。

風呂田:隣近所だけですよね。挨拶とか、付き合いがあるのは、このまわりですよね。この通りは同じ商店街の仲間ですから。

シゲタ:なにか好きなこと、好きだったことってありますか。

風呂田:うーん、ないですねえ(笑)。コーヒー点(た)てる以外には、なにも技術はないし。
ただ、うちの主人は名和さんの薫陶を受けてマジックを始めて、マジックの仕事を30年間やってね。日本だけじゃなくて海外からも有名な人を呼んだりしてパーティーをやっていました。杉並奇術連盟っていうサークルを主人が作って。3年に一度世界大会があって、その日本代表になったこともあるんですよ。いろんな人とグループを作って世界大会を見学に行ったり、出演したり。

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ペーパーのハンドドリップで抽出されている。アイスコーヒーのみネルドリップとのこと。老舗の佇まいながらも、コーヒーの味は「今」を感じ、お店としてこれからも変わらないもの、そしてコーヒーで進化していく片鱗を感じた。これからの邪宗門がこれからもずっと、目を離せない存在であることを深く確信した。(シゲタツヨシ)

シゲタ:やっぱり、コーヒーを淹れることがお好きなんですか。

風呂田:嫌いって言えないでしょ、仕事ですから(笑)。コーヒーは、飲むのも好きですけどね。もちろん毎日飲んでますよ(笑)。自分で飲みたいから、淹れて飲みます。今は、その私の孫ってことになっている彼がコーヒーを淹れるのは全部やってくれるようになりました。私は目があまりよく見えませんので。彼が跡を継いでやるって言ってくれていますんでね。荻窪邪宗門は彼のものです。

シゲタ:お店を引き継ぐっていう方が近くにいらっしゃって。それってすごいことですよね。

風呂田:ねえ。ほんとにあたしは幸せもんです。

シゲタ:長年現役で働かれいてますけれども、健康の秘訣ってなんですか。

風呂田:わかんないですよ(笑)。自分がなんで生きているのか。ごはんを食べて、生きているだけで。ただそれだけ。年ですし、もういつ死んでもおかしくないんだけど、ぜんぜん死にそうになくて(笑)。記憶力もなくなってね。お客さんの注文聞いて下に降りていったら、あれ?って。もうここ1年くらい前から、もの覚えができなくなりました。怪我したり、足が動かなくなったり。転んでね。

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二階の階段をあがった壁面には亡くなったご主人が描いた油絵。推理作家で親友の、故・泡坂妻夫さんの小さな肖像が飾られている。

シゲタ:お店の自慢とか、思い出の品とかあったりしますか。

風呂田:絵がありますね。その絵は主人は絵が好きで。主人が選んだ絵です。主人が描いたものもありますよ、壁にあるコップの絵。あと、窓際のお面の絵もそう。マジックの本も自分で書いたりしていましたね。今でもマジック関係の人が時々訪ねて来てくれたりしますよ。若い方もね。
でも、同じ年ごろだった人たちはもう、みんないなくなって。推理作家の泡坂妻夫さんは親友でした。書いたものが掛けてあります。いつまでも友達でいたいんですって言っていたのに、ご夫婦とも先に亡くなって。あたしと世田谷のマスターだけがなんとか生きてる。

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二階には振り子時計をはじめいくつもの時計コレクションが。

シゲタ:若い世代の方に、なにか伝えたいっていうようなことは、ないですか。

風呂田:そんな大それたこと、あたしが言えるわけないですよ。こんな、なんにもできないのに。とにかく、みなさんはね、健康で、ご自分の好きなことがあれば、やればいいんでね。みなさん、個人個人で一生懸命やっていらっしゃるんでしょう。あたしなんか、そんな言えた柄じゃない。自分自身がうまくできないのにねえ(笑)。

シゲタ:長年お店を続けてこられたっていうだけでも…。ここは落ち着きますよね。

風呂田:それは、この店自体の作りですからね。もともとそう作ったからそうなってるだけで。なるようにしかなってないだけです。ほんとに。そんなに努力もしてないし。努力するほど、甲斐はなかったし。
まあ、淡々とでもないけど。惰性みたいなもんで(笑)。
感じ方はお客さんの自由ですから。コーヒー。たかがコーヒー(笑)。

シゲタ:(笑)。ありがとうございました。貴重なお話をうかがえて嬉しかったです。

風呂田:当たり前のことですよ(笑)。

荻窪邪宗門
住所 杉並区上荻1-6-11
電話 03-3398-6206
営業時間 15:00頃〜22:00頃
定休日 月曜 ほか 臨時休業等の案内はツイッターでご確認ください。
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取材・編集:シゲタ ツヨシ(ツブサ主催) 、NPO法人TFF、仲町みどり

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※本記事に掲載している情報は2023年02月07日公開時点のものです。閲覧時点で情報が異なる場合がありますので、予めご了承ください。