高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪でビール工房を展開する株式会社麦酒企画代表に聞く

中央線あるあるPROJECTが対象とする4駅すべてで店舗を展開している「ビール工房」。その代表を務める能村夏丘(のうむら・かきゅう)さんは、1号店となる「高円寺麦酒工房」の開業時からブルーパブ(併設の醸造所で作ったビールを提供するお店)という形態にこだわり、「街のビール屋さん」の文化を各地に根付かせようと走り続けています。今回は、そんな昨今のクラフトビールブームの立役者のひとりでもある能村さんにインタビューを依頼。杉並から始まったビール作りについて大いに語っていただきました。(インタビュー場所:高円寺麦酒工房)

新しいことは高円寺で始める

―本日はよろしくお願いします。早速ですが、自分たちでビールを作って売るという、こうしたスタイルのお店を高円寺から始めた理由からお聞きしていいですか?

能村:最初は、日本中どこでも、下手したら外国も含めて可能性はあると思っていたんですけれども、やはり「自分にとって身近な街でやるべき」と思ったんですね。僕のビールの師匠は岡山が拠点なのですが、「岡山県民に飲んでもらいたい」という思いがすごく強い方で、いっさい県外に出さない主義なんです。東京はもちろん、大阪のビアパブにも出してないんです。その代わり、社員が岡山県内をくまなく回り、県境の方までビールを届けています。その影響が強いですね。

―なるほど。

能村:自分に縁のある街といいますと、生まれ育った板橋、19歳のときに下宿していた中野、それから結婚してから住んだ阿佐ヶ谷でした。その阿佐ヶ谷住まいのときに、このビール屋をやるぞ、となったわけで、そうするとこの辺から考えるのが素直ですよね。でも板橋は離れて何年も経っていたし、となると、やっぱり中央線の方が、ね。文化色豊かですしね。

―それはそうですよね。

能村:「何か新しいことをやるのにいいんじゃないか」と。住んでいたのは、阿佐ヶ谷と言っても高円寺との中間の辺り、馬橋公園の近くで。

―ああ、なるほど。それで最初にオープンするとなると、やっぱり高円寺だと。

能村:高円寺で新しいものを始めたら、「いいじゃん!」と、すぐ話題になるんじゃないかと思いまして。あまり看板が立派じゃなくても、ひたすら自分を信じてやっていけば、そこを評価してくれるのがこの街の気風としてあるんじゃないかと感じていました。それで高円寺にしようと決めました。

―それがいつごろですか?

能村:2010年の春です。4月に高円寺に引っ越したんですよ。

―阿佐谷北から高円寺へ?

能村:はい。「この街にしよう、この街をもっと知ろう」と思い、お寺の高圓寺のある高円寺南4丁目に引っ越しました。そうすると、以前住んでいた場所は馬橋公園の方だったので、駅を挟んで駅の両側を見ることができるから、生活感覚が分かるんじゃないかな、と。結局そこは2ヶ月で引っ越すはめになったんですけど(笑)。

―何かあったんですか?

能村:(高円寺の現店舗の)物件の大家さんがすごくいい方で、「早くここに住みなよ」って。いろいろ家賃とかサービスしてくれたんです。

―おお。

能村:6月にここに引っ越してきたので、南4丁目の家にはたった2か月しか住んでない。それでもOKストア(高円寺駅南口にあるスーパー)がいかに便利かとか、そういうことも分かるようになりましたし、良かったですね。

―それで結果的に、職住近接ならぬ、ひとつの場所に住んで働くことになったわけですね。最初からそういうスタイルを望んでいたのですか?

能村:どうだったかな。近ければ近いほどいいだろうなとは思っていましたけどね。発酵の作業を24時間、この建物の中でやるわけですけれども、特に仕込み初日なんかは夜中に「ちゃんと発酵しているかな」と気になって眠れない。そういうとき、近いとすぐ様子が見に行けるし、さらにアパートの廊下に換気扇を開けましたから、発酵の匂いが届いて、なんかこう、雰囲気が分かるんですよ。

―それは一石二鳥なわけですね。

能村:そうですね。それにしても大家さんが「早く住みなよ。住んでくれたら、店側の方は家賃いらないよ」と言ってくれたのが大きかったです。

―それは大きいですね。

能村:ありがたいじゃないですか。だって店舗の家賃なんて大変で、みるみる貯金が減っちゃう感じでしたから。そこに夫婦で引っ越してきて、店のオープンの12月まで、ずっとふたりで店を作っていました。醸造免許を取るのにも何か月もかかるし、その間どうせお金もないし、時間をフルに使って、コツコツと店を作ろうという方針でしたね。

―奥様と、暮らしながら、内装工事からビール作りまでやってらっしゃったのですね。

能村:そうですね。

ビールが好きだからこそ

―もともと広告系の会社で営業をされていらっしゃったんですよね。

能村:はい。営業企画部という部署で、広告と言っても媒体ではなくセールスプロモーションが主です。コンビニさんでの景品の企画などを柱にした会社で、僕が新人で入ったとき、「どこでも行って来ていい」と言われました。当時はキリンビバレッジさんと取引があったのですが、「コンビニより本社、ジュースよりビールの方が面白そう」と思って、親会社のキリンさんの方に行きました。それ以降、ずっとキリンビール担当で、しかも缶ビールじゃなくて飲食店向けの業務用の方です。飲み屋でお客様にキリンビールの魅力をPRするお手伝いを5年間やっていましたね。

―そこですでに仕事としてビールに親しむというようなことが出来上がっていたのですね。

能村:はい。それがなかったら、家でプシュっとやって自分で楽しむだけだったと思いますね。

―そのときはまさかビール屋さんをご自身で始めるなんて思いませんでしたか?

能村:そうですね、元々ビールが好きでしたけれどね。ただ、その仕事をしているうちに、ビールを美味しい状態で飲むとはどういうことか、とか、生ビールの劣化や洗浄不良のことなんかを考えるようになりましたね。

―なるほど。

能村:メーカーさんは「生ビールは半製品で完成品じゃないですよ。最終的にお店の人が仕上げて完成するものですよ」と啓蒙するんですけど、意識が低くていつでもひねれば出ると思っているお店だと、状態の悪い生ビールが出てくる。僕はそれがもう嫌でたまらなくて。劣化したものをお客様が「こういうもんか」と思って飲むわけなんですけど、それって悲しいですよね。

―たしかにそうですね。

能村:旅先で地のものを食べたくなるのと同じで、お酒も地酒や地ビールがあれば飲みたいと思いますよね。一度、とある地ビールの工場までわざわざ行ったとき、作りたてのビールをそこで飲ませてもらったら美味しかったので、近所の酒屋さんで同じビールの瓶を買いました。それで宿に戻って一緒に行った先輩とお風呂上がりに飲んだら、「あれ?」ってなって。美味しくなかったんですね。工場で飲んだのと全然違うよねって、すっかりしらけちゃった思い出があります。酒屋さんの管理方法が良くなかったり日付も結構経っていたり、そういうことの積み重ねなのですが、自分の場合は「決してビールにそういう思いをさせたくない」と。だから流通させないし、他人には売らせない。他人に売らせるから悪いんだと(笑)。

―なるほど、そうした経験が今のスタイルにつながっているんですね。

能村:はい。酒屋さんにとってはたくさんあるお酒のひとつに過ぎないですけれど、自分にとってはかけがえのない子供みたいなものですからね。それで「他人に任せるんじゃなくて自分で売ろう。自分で売るとなると、いろんなところに出かけるのは限界があるので、自分もビールも動かないでお客様に来てもらおう」という基本的な今の姿の原点は、そうした経験から固まってきました。

街のビール屋さんの挑戦

―そうして高円寺からお店を始められるわけですが、その後、阿佐ヶ谷、荻窪、中野、西荻窪…と、割と安定的に展開されていますよね。さらには中央線を飛び出し、高田馬場や所沢にも出店されています。ここ数年、破竹の勢いだな、すごいなと思って見ていたのですが、そうした一連の店舗展開について、意図やねらいをお聞かせいただけますか?

能村:まず創業したときはですね、生業として創業しましたから、一生、父ちゃん母ちゃんでやっていくつもりでした。子供が生まれても地元の小学校に入れて、将来「親の仕事は何ですか」と子供が聞かれたら、「うちはビール屋だよ」と答えられるような世界を思い描いていたんです。街の豆腐屋さんのごとく。ところが始めたらすごく反響があって、地元の方だけでなく遠方や海外からも来られて、「いいな」とおっしゃるんですよ。

―それはうれしいですね。

能村:高円寺はいいな、うちの街にもあればいいのになって、たくさん言われて。すごくうれしかったですね。高円寺の街なら自分のやりたいことがきっと伝わる、理解してもらえると思っていたのが、高円寺だけじゃなくて、いろんな街の人から「うちの街にも」なんてことを言われてですね。そのときに思ったのが、「日本中にできたらいいじゃん!」と。「人の住むところにビール屋あり」という考えですよね。

―壮大だ(笑)。

能村:そうすると、じゃあ何軒いるのかなと思うようになって。コンビニほどは要らなくとも、マクドナルドくらいあってもいいかな、とかね(笑)。まあでも可能性として、それをやるのは、僭越ながら僕しかいないんじゃないかなと思ったんですよ。今、日本に地ビール屋は300社くらいあるらしいですけれど。

―そんなにあるんですか!

能村:はい。でもほとんどは、ある程度売れたら工場を移転して拡大してっていう方向が普通だと思います。で、弊社のように「いけると思ったら他の場所でもまたやってみる」というやり方で多店舗化しようとしている企業は他にないんですよ。そこに共感して社員やメンバーも集まって来ています。そういうふうに、ただビールを作るだけじゃないやり方を思い描いたときに、やっぱり2号店を出さなきゃいけない。そのとき、醸造家志望もうちに来ていてですね。

―なるほど。

能村:「人が必要になったらいつでも呼んでください」なんて言って、手書きの名刺を置いていく若者とかですね(笑)。それでどこに店を増やすかっていうときに、結果として阿佐ヶ谷だったんですが、随分悩みましてね。まず、業者さんや知識のある方は「隣に出しちゃダメだ」と言うんですよ。高円寺で成功しているんだったら、下北沢とか、吉祥寺とか、そっちに行くべきだっていうわけなんですよ。

―確かに。そう言うかもしれませんね。

能村:いきなり新宿っていう話もすでに出ていました。そういうもんかなあと思ったんですけど、でもそれをやってくと、虫食いで“いいとこどり”で終わるなと思ったんですよ。それで日本中を見まわしてみたら、高円寺と阿佐ヶ谷はたった2キロしか離れてない隣町かもしれませんけど、それぞれに駅前はあるし、住んでいる人は使い分けているし、独立して考えたいなと。それで「ひとつの街にひとつの店」ということを実現出来なかったら、僕の描く未来はないなって思ったんですね。だから2店舗目は高円寺の右か左、中野か阿佐ヶ谷、どちらかにしようと。そのとき中野は警察病院の跡地が工事している最中で、ちょっとなんていうか、バタバタしていて…。

―再開発に向けて…。

能村:はい。それで「中野は今じゃないな」と思って、阿佐ヶ谷に行きたいなということで、決めました。そのあとも同じような思いです。阿佐ヶ谷のあとに中野か荻窪かってなって、まだ中野じゃないなと思って、荻窪に行った。で、そのあとにもう中野でもいいかなと思って、中野に出しました。

―街から決めていくわけですね。それにしてもあまり時間はあいてないですよね。2010年に高円寺に作って…阿佐ヶ谷はいつですか?

能村:阿佐ヶ谷は2012年の7月、荻窪は2013年の9月です。

―ペースが早いですね。そしてそこでそれぞれ「街のビール屋」を形作っていく。

能村:「街のビール屋さん」になりたいというのは、街そのもの、そしてその街に住んでいる皆さんに必要とされる存在になりたいということです。そのためにはまず街の過去を知り、現在の人たちと未来へ向けて100年続くビール屋さんでいたいと思うことです。100年後には当然、僕も生きていないし、醸造家もお客様も何世代も交代しているし、街も変わっているかもしれない。物件だって100年持ちませんから、街の別の場所に移転しているでしょうけど、でも、文化だけは消えない。「100年続く街のビール屋さんの文化」が生きていく道を作りたいんです。ですから、そのために「その街らしさ」を追究する努力は常にしなきゃいけないと思っています。

―思いが強いですね。

能村:7店舗もやってれば、ある程度決まってくることもあります。坪数や席数はこうで、回転はこうで…とか、経営的なもの。でもそれはあくまで数字だけの話であって、形式の方は街に合わせていかないといけない。例えば西荻に出店したとき、中ジョッキを廃止しました。ジャグという、ちょっと可愛らしい、マグカップのような中途半端な不思議な容器に変えたんです。

―はい、西荻だけ違いますよね。

能村:あれ、気に入っているんです。「20〜30代の子育て中のお母さんが、ひとりで夕方4時にテラス席で堂々と飲める容器」というコンセプトで選びました。「後ろ指を指されない、飲んでる人も気にならない」というものだと、その時点で一般的な中ジョッキは弾かれます。気にしないお母さんはいいんですけど、「昼間っからビール飲んでサボってる」みたいなことを言う人もいるし、仮に言われなくても「言われているんじゃないか」と気にするお母さんもいる。そういう方に向けて「いいじゃないですか、別に子供寝てるんだし。自分の時間を過ごしてもらうために、コーヒーでもいいけどビールも飲んでくださいよ」というメッセージなんです。あの街では、物件決めてトンカンやっているうちから、やたらベビーカーですとか子育て世代を目にしていまして。ましてや表通りの商店街なので。

―そうですね、西荻でも人通りが多いところですものね。

能村:そういう「ビールのバリアフリー化」をやりたいなと。中野なんかは酒場エリアにありますから、いいんですよ、お酒の好きな人相手で。でも西荻はちょっと違って、そういう挑戦をしてみたい。だから「コンセプトを街ごとに変えている」という面もありますけど、逆に、「新しい街との出会いが、僕らのコンセプトを進化させてくれている」とも言えるんです。

中央線を出てみて

―それはいい表現ですね。では、高田馬場や所沢はいかがですか?

能村:馬場は山手線も通る複数路線の駅ですから、中野よりさらに都会で、通勤に通学に…ケタ違いに人は多いですよね。

―馬場に行くということで、中央線を飛び出しました。

能村:5号店となる西荻に店を出してから、お客様から「次はどっち?東中野?吉祥寺?吉祥寺飛ばして、武蔵境にしてくれないかな」とか言われていました(笑)。不思議と吉祥寺というリクエストは来なかったです。一方で「白金はいつですか」なんて言われることもありましたね。

―白金在住の人が飲みに来て、そう言うんですか?

能村:はい。あと「白山に住んでるんだけど、さすがに中央線じゃないから、(都営三田線でつながる)水道橋なら中央線でOKですよね?」みたいなPRも頂戴し始めまして(笑)。

―それもお客さんから?

能村:はい。お客様からです。直接聞くし、ご意見帳にも書いてあるし。求められてうれしいんですけど、そんな中、「中央線はもういいでしょう」という声も多く出てきましてね。「5つあれば十分でしょ。隣町同士でも成立することを証明できたのだし。どこまで行くの?高尾?大月?ちょっとそれは偏ってるよね」といったように(笑)。それで抜け出したのが馬場なんですけど。まあ、抜け出したようでいて実は…。

―高円寺や阿佐ヶ谷にも東西線直通で一本で来られる(笑)。

能村:そう、まあ中途半端なんですけど(笑)。でもこれは「他の沿線にも行くぞ!」という宣言でもあって。あと、僕たちの気持ちのバランスも含めて、中野よりもっと都会に店を作ろうと。

―それで、馬場に行ったと。

能村:それで馬場はアウェイなのかというと、ホームなんです。10店舗までは全部ホームでいこうと思っています。アウェイだと多分、例えば商売が上手くいかないときに「この人たち、僕たちのこと分かってくれないね」と街のせいにすると思うんです。それは良くない。馬場は学生時代によく遊んでいたし、醸造長が馬場の学校に行っていたので、新宿や池袋よりも良く知っている街だったんです。

―なるほど。そして次はかなり遠くに行って、所沢。ここもホームなんですね。

能村:オセロの角を取ったっていう感じですよね、馬場と所沢で(笑)。

―たしかに(笑)。西武新宿線だ。

能村:所沢は変わっていまして。西武デパートの1階に入っているんですよ。

―へえ!それは向こうから声がかかったんですか?

能村:一見ありえないような話ですけどね、きっかけはそうです。で、所沢ももちろん僕にとってホームです。もともと妻が生まれ育ったのが所沢で、今も実家があります。

―なるほど、奥様のご実家なんですね。

能村:はい。所沢は縁もあるし、もっと付き合って行きたいと思っていたので、喜んで出店しました。ここは「街のビール屋さん」の一つの究極の姿ですね。所沢は駅前にボーンと西武デパートがあるのですが、義母に聞くと、もしデパートで買い物がしたいと思ったら池袋か新宿に行くんですって。電車で30分くらいで行けちゃうし、そっちの方が品数多いから。それで思ったのが、地方では特にデパートは斜陽で撤退すると街が空洞化して崩壊しますよね。商店街もなくなっちゃったりして。デパートは街の中心であって欲しいという思いが、どこかにありました。それで、そういう一部になれるんだったら素晴らしいことだなと思い、この出店に至っています。今、1階が食品メインに変わって、正面玄関から入ってすぐのところで、ちょっと目玉のようにやらせてもらっています。うれしいことに、去年より3割、お客様が増えているそうです。

―え、西武全体としてですか?すごい!

能村:西武全体として。「大成功です」って。

―Win-Winですね。

能村:Win-Winです。デパートは朝10時にオープンしますが、「朝10時に誰がビール飲むんだ?」っていう気もしますけど、ところがどっこい、結構飲まれています。ここでは自力だけではできないデパートの集客力を借りて、結果的に街の人たちに受け入れられて、利用されている。地元率、めちゃくちゃ高いです。

―なるほど。

能村:岡山の師匠にも「えっへん」と言える店舗のひとつですよ。「どうですか、このローカル率は」と(笑)。今後もきっと、既存の概念にとらわれずに「街のビール屋さんってどういうことなんだろう、僕たちは何をすべきなんだろう」ということを考えながら、出店が続くんだろうなって思いますね。

―いいですね。杉並発のブランドがどんどん羽ばたいている感じです。

能村:杉並発、間違いないです。杉並から生まれて、常に進化系で、これからは地方都市にも超都心にも行くでしょうし。とにかく人の住むところ、どこでも挑戦するぞということでやっていきます。

ローカルであること

―各店舗が独自に色んなことをやられていますよね。

能村:そうなんですよ。各店長がローカルネタを自分で考えて、企画立案して実行しなきゃいけないんです。高円寺ですと、まず座・高円寺で毎月開催されている座の市に、ずっと出させてもらっています。最近は銭湯の小杉湯さんの脱衣所でビールを飲むイベントなんていうのもありました。

―いいですねえ(笑)。

能村:阿佐ヶ谷ではパン屋さん、荻窪ではコーヒー屋さんとコラボしたことがあります。いずれも同じ街で商売やっているところと共同開発したかたちになりますね。西荻は、西荻ラバーズフェスに出店させてもらったりとか。

―なるほど。

能村:その辺は全社企画じゃなくて、各々、そのときの店長に考えてもらっています。地方出身の店長の場合は地の利もないですし、お客様に「今年は何かイベントありませんか?」とかね、聞くわけですよ。引継書にも載っているんですけど、それを読むのはあまり面白くないんで。やっぱり自分で探して、「そのお祭りに出たいんですけど、なんか知りませんかねえ」とか言って始まるわけですよ。

―正しいやり方だと思います。

能村:自分なりに心を向けるというプロセスが大事だなと思いますからね。あとは、営業日報に「街のビール屋さんエピソード」を書く欄があるんですよ。ローカルを感じた瞬間を報告してもらう。一番は教育でやってるつもりですね。

―「街のビール屋さん」ならではの教育の一環なのですね。スタッフさんに関するエピソードは何かありますか?

能村:そうですね。まず働き方の観点から言いますと、他県や外国(ドイツ、韓国など)から「修行」として来るケースと、そうじゃなくて「ただただ一員になりたい」というケースと、ふたつありますね。後者に関しては、徒歩圏の地元からクルーで入ってくれているメンバーが多く、それはちょっと自慢です。

―いいですね。

能村:南阿佐ケ谷駅が最寄りの学生さんが、履歴書に志望理由として「杉並に生まれ育った人間としてこの店ができたことがうれしい、その一員になりたい」と書いてくれたことがありました。こっちこそめちゃくちゃうれしかったですね。彼にとって初めてのアルバイトだって言うんですよ。もっと大学の近くだったら時給がいいところもあるんでしょうけど、そうじゃなくて、地元のここを選んで入ってきてくれた。

―おお、それもいい話。

能村:あとは親がお客様として来てくださっていて、その子供がバイトを始めたというケースはいくつかあります。最近は西荻で「高校生の娘の初めてのバイトにいいですか?」と親御さんから言われまして(笑)。そのときは社内も騒然として(笑)、「未成年初だ、どうする?でも、お酒を飲まなきゃいいんでしょ?サービスする分には問題ないよね」ということで。今、バリバリやってもらっています。

―それも面白い!

能村:中野店では、大家さんの息子さんが大学生になって最初のアルバイトとして来てくれました。「ビール工房さんならきっと大丈夫と思う」と大家さんの太鼓判付きで(笑)。

―なんだか色々出てくるじゃないですか(笑)。素晴らしいです。あらゆる意味でローカルな店です。

能村:別に醸造したいとか独立したいとかじゃない方、最近また増えているんです。すごくうれしいですよね。今後はそういうふうに構成していこうかな、なんて思うくらいですよ。通勤よりその地域の人で構成されている方が「街のビール屋さん」らしいと思いますしね。

飲食店をやりたいわけじゃない

―100年続けたい、マクドナルドくらいまでは店数を増やしたい、といったお話が出ましたが、例えば5年後までにはどれくらいとか、そういった具体的なイメージはありますか?

能村:数は、具体的に言っちゃうとザワザワしちゃうんですけど…まあ、どんどん増やしていけばそれ自体は難しいことじゃなくなってくると思います。また、もしうちの会社が足を緩めても、この勢いで地ビールの店は増えていくでしょう。道なき荒野はもう耕した状態なので、ここはやはり、「街のビール屋さんという文化を作る」という会社のミッションに立ち戻って、ですね。数が文化を作るという側面もありますけどね。

―そこはぶれずに。

能村:そのためには何でもやりますから。一番はビールの商品追究にはなるんですけど。

―そうですよね。美味しさを伝えるっていう。

能村:でもそこは大手さんと違う、「この街で」という付加的要素があるので、今後もそれとはセットで行きたいと思うし。これまで以上に街も変わりますんでね。高円寺の街も、純情商店街も、随分変わっちゃったし。

―そうですよね。そういえば阿佐ヶ谷の店舗の移転理由は建物の老朽化だったんですか?

能村:そうです。

―そこで「じゃあ、やめるか」という選択肢はなかったわけですよね?やっぱり阿佐ヶ谷で店を残す必要を感じて、今の場所を見つけられた。

能村:そうです。一回店を出した街からは、絶対去らないと決めています。姿かたちは変わっちゃうのかもしれませんけど。阿佐ヶ谷は2012年にオープンして、2016年に建物の取り壊しが確定して、移転を強いられるわけです。強いられるっていうとネガティブですけど。その間、阿佐ヶ谷らしいビール屋にふさわしい場所はどこかと考えていたとき、ふと「駅前だ」と思ったんですよ。それで、持ち帰れるようにしようと思って。阿佐ヶ谷の場合は、高円寺みたいに、あんまりあれこれ散歩とかしないですよね。駅前でささっと買い物済ませてバスに乗っちゃうとか、または自転車でビューっと家に帰る。飲み歩いている人もいるけど、そういうのはメジャーじゃ無い感じかな?それは沿線5つの駅で一番強く感じました。

―なるほど。

能村:だったらそのライフスタイルの一部になろう、と。僕らは飲食店がしたいわけじゃなくて、街の人にビールを飲んでもらいたいわけなんで。飲んでもらえれば、お店だろうが、自宅だろうが、どこでもいいんですよ。だったらなるべく駅に近い方が買いやすいし、値段の値ごろさも追究していこう、と。その代わり大幅に客席が犠牲になって、前みたいな気持ちいいビアガーデンはなくなりましたが(笑)。

―でも、それは仕方がないですよね。

能村:それよりも阿佐ヶ谷で大事なことは、街の人たちの日々の生活の中に僕らのビールがあることなんです。マイボトルといって、500㏄入るボトルに詰めて量り売りして帰ってもらうんですよ。

―買っていかれる方は多いんですか?

能村:はい、結構いらっしゃいます。今、ボトルも増産しようとしてる最中なんですよ。

―ことごとく当たっていますね…。

能村:う~ん、でも多分、商売的には下手くそだと思います。マイボトルは売れていますけど、儲からないですよ。客単価という面でも、食事利用や宴会とかしていただくとまあまあいくでしょうけど、マイボトルは一杯だけですから。むしろ手間がかかっちゃっている。使命感でやっている感じですね。

―そうでしたね。商売を考えたら下北沢に行っていたわけですし。

能村:はい。やっぱり、区内で一番家賃の低いところにドカンと工場を作って配送するのが手っ取り早いですから。で、家賃の高い駅前をただ売り場だけにするっていう(笑)。

―それやっちゃったら、ね。

能村:おしまいだなと思いますよ。そうしないことが、一番の価値ですから。

高円寺麦酒工房
住所 杉並区高円寺北2-24-8
電話 03-5373-5301
営業時間 水〜金17:00~23:00 土日祝12:00〜21:00
定休日 月曜・火曜
阿佐谷ビール工房(閉業)
住所 杉並区阿佐谷北2-1-8
電話 03-3336-0606
営業時間 平日17:00~23:00 土日祝15:00〜21:00
定休日 無休
荻窪ビール工房
住所 杉並区荻窪5-23-6
電話 03-5397-1205
営業時間 火~金17:00~23:00 土15:00~23:00 日祝15:00~21:00
定休日 月曜
西荻ビール工房(閉業)
住所 杉並区西荻北3-25-1
電話 03-3395-6550
営業時間 平日11:30~23:00 日祝11:30~21:00
定休日 無休

※本記事に掲載している情報は2017年09月08日公開時点のものです。閲覧時点で情報が異なる場合がありますので、予めご了承ください。