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阿佐ヶ谷の人気和菓子店・うさぎやのおんな店主に聞く

「うさぎやのどらやき」と言えば、地元だけでなく、遠方よりはるばる買い求めにくるファンも多い人気商品。開店直後から行列する様子を、しばしば見かけます。自慢のあんこを使った甘味でホッと一息つける喫茶コーナーも、女性に大人気。阿佐ヶ谷にオープンして60年余りとなる「うさぎや」の絶えることのない人気の秘密を、おんな店主・瀬山妙子さんへのインタビューで明かしました。

おんな店主の横顔

―今日はお忙しい中お時間をいただき、ありがとうございます。早速ですが、「うさぎや」さんは、この阿佐ヶ谷以外にも上野と日本橋にお店がありますが、暖簾分けなのでしょうか?

瀬山:いえいえ、どちらも親戚がやっています。上野の店は私の祖父が始めた店で、日本橋はその子供、私の叔父が創業者です。今はそれぞれ子孫が店を継いでいますが、みな高齢で忙しいので、あまり会う機会はないんです。

―そうなんですね。それでは阿佐ヶ谷のお店のことを伺っていきたいと思います。まずは瀬山さんご自身のことからお聞きしたいのですが。

瀬山:私は1934(昭和9)年に、西荻窪で生まれました。それ以来、ずっと杉並に暮らしています。父は、浅草蔵前で材木屋を営んでいました。母は、上野黒門町の「うさぎや」の娘でしたが、父の元に嫁いだんです。父は西荻窪から浅草蔵前に通勤していました。着物を着て、下駄をはいて(笑)。

―ずっと杉並なんですね!当時は西荻窪のどの辺りにお住まいだったんですか?

瀬山:西荻窪駅の北口、青梅街道に続く大きな通りの、関根橋から2つぐらい手前の角を右に曲がった辺りに自宅がありました。

―当時の西荻窪はどんな街でしたか?

瀬山:今みたいに、小さな家がちまちま建っているのではなく、大きな家がバンバンと建っていましたね。うちなんかも庭を含めて300坪ありました。別荘地のような感じで、隣は女優の小暮美千代さんの住まいでした。母が西荻窪にお嫁に来た時分は、家から西荻窪駅までの間には、よろずやが1軒あるだけだったと話していましたね。街路灯などもなかったので、夜は真っ暗。夜道を歩く時に使う「瀬山」の名前が入った提灯が納戸にありました。善福寺川ではよく遊びました。当時は川の近くに染物屋さんがあって、善福寺川の水でのりを落としていました。

―お嬢様だったのですね!

瀬山:私は5人兄弟で、姉が1人、弟2人、妹1人がいましたが、私が小学校に上がった時分には、姉と私にそれぞれ「ねえや」がいて、世話をしてくれていました。ねえやが何もかもしてくれていたので一人では何もできず、いざ学校に通うとなった時に靴の左右がわからず、傘の差し方もわからなくって、わんわん泣いていたのを今でも覚えています。

―地元の学校に通われていたんですか?

瀬山:桃井第三小学校に6年間通いました。その間に太平洋戦争があり、集団疎開も経験しました。疎開先は宮城県の登米というところでした。終戦の時には小5でしたが、小学校卒業後は、荻窪中学校で学びました。

西荻時代の「うさぎや」

―辛い時代を経験されたのですね・・・。戦後はどのように暮らしていましたか?

瀬山:1945(昭和20)年の3月10日の東京大空襲で、浅草蔵前にあった父の材木屋は焼けてしまい、しばらくは「タケノコ生活(※)」をしていました。父はいわゆる「ぼんぼん」で生活能力がなかったので、その生活を打破しようと奮闘したのが母でした。母は父に嫁ぐ以前に、実家の上野黒門町の「うさぎや」を手伝っていたので、和菓子屋なら自分たちでもできると思ったようでした。1950(昭和25)年、残っていた着物を全部売り払い、上野黒門町の「うさぎや」から25万円を借金し、職人と小僧さん、計3人ぐらいを集めて、西荻窪で「うさぎや」を始めました。
※タケノコ生活:タケノコの皮を1枚1枚剥くように、手持ちの家財道具や衣服などを売って生活費を工面するような生活。

―頼もしいお母様だったんですね。当時の「うさぎや」はどんなお店でしたか?

瀬山:母、職人、住み込みの小僧さんに加えて、姉と私が手伝いました。お店は、自宅から少し離れた女子大通りにありました。一間間口ぐらいの小さな店でしたから、同じ場所でお菓子の製造はできなかったのです。自宅の裏庭に小屋を建て、薪であんこを焚き、お菓子を作りました。そして自転車の荷台にお菓子を乗せてお店まで運びました。戦後、米、砂糖、小豆といった和菓子の材料は統制品で、闇でしか買うことができない物でした。なので、もしもおまわりさんに見つかれば全部没収されてします。お菓子を運ぶ時は、いつもドキドキしましたね。

阿佐ヶ谷に移転した当時の母・龍さん(1957年撮影)

阿佐ヶ谷に移転した当時の母・龍さん(1957年撮影)

―当時はどんなお菓子を販売していたのですか?

瀬山:上生菓子、どらやき、うさぎ万頭の前身の上用まんじゅうもありました。当時、砂糖の代用品として「サッカリン」や「ズルチン」といった廉価な人工甘味料があって、母は人から「人工甘味料に変えた方がいいのでは」と何度も言われたようですが、断固として変えなかった。値段が高くても砂糖を使っていました。それはずっと母の誇りだったようです。

阿佐ヶ谷に「うさぎや」誕生

―阿佐ヶ谷にお店を移されたのはどうしてですか?

瀬山:西荻窪の「うさぎや」は、店舗を借りられる年数が7年間と契約で決まっていました。なので、契約の切れるタイミングで、母は別の場所を探しました。そして見つかったのが現在の場所です。

―現在の場所を選ばれた理由はどんなところにあったのでしょう?

瀬山:西荻窪では製造場所と店が離れていたので、不便を感じていました。また、お金がなかったので、地代が安いというのも条件の1つでした。当時の阿佐ヶ谷は、駅の北側は南側と比べればさびれたところ。そんな状況だったので、条件に合う店を探すことができたんです。また、その時分には冷蔵庫がなかったので、商品が傷むのを避けるために、店が北の方角を向いているところを希望していて、現在の場所に巡り合ったようです。

阿佐ヶ谷に開店した頃店舗外観(1957年撮影)

阿佐ヶ谷に開店した頃店舗外観(1957年撮影)

―阿佐ヶ谷に引っ越された当時、お店や周辺はどんな様子でしたか?

瀬山:阿佐ヶ谷に移った時点で、職人は3名ぐらいに増えていました。自宅も同時に阿佐ヶ谷に引っ越しました。西荻のお客様をすべて置いてきてしまったので、頑張らなくてはならないと躍起でした。現在は高架している中央線の線路は、阿佐ヶ谷ではまだ高架がされておらず、北と南は分断されているような状況でした。駅の南口から青梅街道まで続くパールセンター商店街は、色々なお店があって賑やかで、楽しい商店街としてプライドを持っているなぁと感じましたね。

―今とは様子がずいぶん違っていたのですね。

瀬山:そうですね。「うさぎや」では、商品見本をショーケースでご覧いただき、注文を受けるスタイル。この販売形態は、当時下町では当たり前だったのですが、この辺りはショーケースに番重(※)を置いているところがほとんどでした。見本1つしかショーケースに置かない「うさぎや」は「高そうだ」と噂されていたそうです(笑)。
※番重:製菓や製パン、製麺などの湿度管理が必要な食品業界で使われるふたがない箱。元来は木製だが、最近では様々な素材の物がある。

阿佐ヶ谷に開店した頃の店先の様子(1957年撮影)

阿佐ヶ谷に開店した頃の店先の様子(1957年撮影)

―商品に何か変化はありましたか?

瀬山:西荻時代に販売していた物とほぼ同じでしたね。当時、上生菓子が20円の時代でした。うさぎ万頭は、阿佐ヶ谷に越してきてしばらくしてから変わったんですよ。ある兎年に、職人の提案で、楕円形に焼き印が押してあるだけだった上用まんじゅうを、形を丸くして、耳と目を付けたんです。それがヒットして現在のような形になりました。

―阿佐ヶ谷に移られた頃のエピソードで印象に残っていることはありますか?

瀬山:阿佐ヶ谷に移った当時はまだ若くて遊びたい盛りでした。でも仕事は毎日忙しかった。毎週日曜日が定休日だったのですが、土曜日に仕事が終わった後、男の子と新宿に毎週のように出かけていって、終電がなくなるまで飲んでいました。「ぼるが」という焼き鳥屋さんが好きで、通っていました。昔は外から開けられるような鍵がなかったので、家の中から開けてもらわないと家に入れなかったんです。夜中に帰宅して、「女だてらに・・・」と2時間ぐらいお説教されましたが、また翌週もめげずに出かけていましたね(笑)。

家族で撮った一枚。右から二人目が瀬山妙子さん、23歳。(1957年撮影)

家族で撮った一枚。右から二人目が瀬山妙子さん、23歳。(1957年撮影)

「うさぎや」のこだわり

―「うさぎや」のお菓子のことをお伺いしたいのですが、ずばり、人気商品は何ですか?

瀬山:目玉商品は、まず「どらやき」、次に「うさぎ万頭」、よくお勧めするのは日持ちのする「兎月最中」です。うちのお菓子は、全体的にさほど甘くないんです。母が、祖父や祖母から「食べ終わった時にもう1つ食べたいと思われる余韻がある甘さにしなさい」と言われたことを守っていて、その割り(レシピ)には今も従っています。もちろん最中には日持ちがするように甘いあんこを使います。

―「うさぎ万頭」はフォルムも顔もかわいらしいですね。

瀬山:「うさぎ万頭」は、目と耳は寒天とあんこを混ぜた羊羹で書いているのですが、手作りなので、1つ1つ顔が違います。よくお客様から「かわいいのでどれから食べようか迷う」と言われます。

―包装紙やパッケージも素敵ですよね。

瀬山:包装紙は、西荻窪で開店した時から同じデザインです。もちろん住所の部分は変わりましたけど。図柄は、上野黒門町の「うさぎや」二代目となった叔父・谷口喜作の双子の兄弟で、翻訳家だった叔父・平井呈一が書いてくれたものです。「兎月最中」の包み紙も同様に平井呈一が書いてくれました。今は掛けていませんが、阿佐ヶ谷の「うさぎや」開店時に使っていたのれんは、日本橋の「うさぎや」の叔父が贈ってくれたものです。芥川龍之介さんと仲がよかった画家の小穴隆一さんが書いたものでした。みんな、上野黒門町の二代目である叔父の俳句仲間でした。「どらやき」は、今では個装されていますが、昔は個装されていなかった。今のパッケージは、私が書きました。

―瀬山さんも芸術家だったのですか?

瀬山:いえ、お習字を習っていて、筆で兎を書いたものです。私はシンプルなデザインが好きなので。

―先代は材料に妥協されなかったようですが、瀬山さんが「これだけは」とこだわりを持っているのはどんなことですか?

瀬山:そうですね・・・、やはり材料と製造方法でしょうか。和菓子は米、砂糖、小豆がほぼ材料のすべてとなりますが、母から店を継いで以来、仕入れ先を変えたことはありません。特に小豆は収穫量が天候に左右されやすいのですが、「小豆の値段が上がりそうだから多めに買っておいた方がいいよ」などと仕入れ先がアドバイスしてくれます。「悪いようにはしない」と信頼しています。このような関係は、構築できるまでに長くかかります。こうした信頼関係があって安定した商品を提供することができますので、大事にしていますね。

―信頼関係の上に「うさぎや」は成り立っているんですね。

瀬山:それと、昨今ではだいたいどこの和菓子やさんでもコンピューターで制御された機械を入れていますが、うちの場合には、ほぼ手作りです。たとえば、あんこを作るのに、うちでは「あんば」と呼ばれるあんこ担当の職人が1人います。あんこは和菓子の基本ですから、10年ぐらい経験がないと「あんば」を任せられません。小豆を焚いて、手作業であんこを練る。手作業だと作れる量は限られますが、丁寧にやることで、伝統の味をつないでいけるように思います。

―見本がショーケースに1つずつ、対面で注文を受けるというスタイルも変わっていないですね。

瀬山:ショーケースに見本のみを入れている理由は、お菓子を番重に入れたままショーケースに入れておくと、乾いてしまうからです。そのため、現在も注文いただいて、裏からお持ちするというスタイルをとっています。対面販売はいいところがあって「暑いですね」とか「寒いですね」といった挨拶でもちょっとお客様と会話ができますよね。挨拶から時には昔話になったりもして。お客様とのコミュニケーションのために、必要だと思っています。昔は魚屋さんでも八百屋さんでも「今日はこれがおいしいから持っていきな」なんて言われて、「どうやって食べるの?」って聞くと、おすすめの調理方法を教えてくれたり。今のようにお金と商品をただ交換するような状況ではなかったと思うんです。「うさぎや」はそれをしたくない。

―従業員の教育にも力を入れられているんですね。

瀬山:「うさぎや」には、現在、職人や販売のアルバイトも含めて27人も従業員がいます。お店の規模を考えれば、多いと思いませんか。

―そうですね、そう言われれば大勢おられますね。

瀬山:製造に携わる職人も手作業が多いのですが、販売も同様に、注文を取ったり、包装したりを手作業で行います。また、用途によっておすすめる商品や、かけ紙が異なったりします。たとえば弔事用の品物だったら、「日持ちのする最中のようなお菓子がお勧め」と覚えなければなりません。販売担当も覚えることがたくさんあるんです。

―なかなか簡単ではなさそうですね。

瀬山:昔は、結婚式の引き出物には杉折りに鶴亀のお菓子が入った「三つ盛り」があったり、お葬式の時には黒い羊羹と蓮のお菓子の練り切りや白い求肥とあんこを使った細工菓子・雪平が定番だったりと、冠婚葬祭とお菓子が生活に結びついていましたから、教えてもらわなくてもわかることがたくさんありました。現在は、昔と比べて「和の暮らし」が生活に密着していないので、教えてもらわないとわからないんですね。上の人から教えてもらって、1つ1つ覚えていきます。

未来に残したい伝承工芸

―「うさぎや」が西荻窪に誕生してもうすぐ70年ですが、瀬山さんが大切にされていることはどんなことですか?

瀬山:私は18歳の時から家族従業員としてずっと働いて、35年前の50歳の時に母が亡くなり店を継ぎました。母の時代も同じでしたが、「職人は宝」だと思っています。現在も、1つ下の弟が職人として働いていますが、高齢になった今でも、弟は戦力です。

―職人さんの一日はどのような感じですか?

瀬山:早朝、まず一番下の職人が窯に火を入れ、豆を煮ることと米を蒸すことから始まります。そうこうしているうちに、米が蒸しあがるので、お団子や大福など「朝生」というお菓子類から作り始めます。

―朝生にはどんなお菓子があるのですか?

瀬山:その日に売り切ることを目的として朝から作り始めるお菓子で、餅菓子や団子、葛菓子などのことを言います。比較的安価で、家庭で日常的に食べられるものが多いです。

―なるほど。

瀬山:それが終わったら、まかないのご飯を食べて、どらやきなどのお菓子の製造に入ります。

―まかないがあるんですか?!

瀬山:うちには従業員用の食堂があって、そこでまかないの食事を出しています。職人と同じように大切に思うことは、チームワーク。現在の「うさぎや」の中で血縁は、職人の弟、経営を手伝う甥だけですが、従業員とのチームワークを大事にしています。みんなが居てくれるので、私はご飯を食べていかれるんです(笑)。

―この先、将来に引き継いでいきたいことはどんなところですか?

瀬山:和菓子は季節を意識した伝承工芸だと思っています。現在残っている和菓子は、長い年月の中で、材料と材料の相性や見栄えなど、ある程度ふるいにかけられた物が残っていると思うんですね。それに手を加えないで、なるべくそのままを引き継いでいきたいです。
たとえば、栗など、昔から和菓子に使っていた物はそのままで、物珍しい果物を入れたりなどはせずに、和洋折衷ではなくって、「昔ながら」をそのまま受け継いでいきたい。どんどん周りはモダンに進化していますが、「懐かしい」と感じる物を継承していきたいと思います。

―確かに。「子供の頃から変わらず懐かしい」と思う和菓子は多いですね。

瀬山:もう1つ、和菓子は季節や節季ごとにあるんです。お正月、おひなさま、端午の節句。季節の変化を和菓子で感じることもあるでしょう。その季節のお菓子にも工夫があって、たとえば、桜餅と水羊羹や葛桜。同じ桜葉を使っているのですが、違いってわかりますか?春の桜餅の季節には、まだ青い桜の葉がないので、塩漬けにした桜葉を使います。夏のお菓子の水羊羹や葛桜は、青い生の葉で包んで、涼し気に見えるようにと工夫がされています。自然にある物を使って工夫を施す、そういった昔からの知恵も、伝承していく価値があると思います。

―ちなみに、瀬山さんのよく召し上がるお菓子は何ですか?

瀬山:時折、色々なお菓子を味見して塩梅を確認することはありますけど、私がよく食べるのは「朝生」ですね。お団子や大福が一番好きです。腹持ちがいいですしね。

―最後にお客様へのメッセージをいただけますか。

瀬山:昔と今では、お客様も変わられました。かつてはちょっとしたところのお嬢さんは、花嫁修業として茶道と生け花を習っていて、茶道のお稽古用やお茶会用のお菓子の注文もよくいただきました。が、生活様式も変わってきたのでしょう、茶道用のお菓子の注文は減りました。その一方、昔では考えられないようなことですが、夜、お勤め帰りの男性が1人で来られることもあります。大福2つとかどらやき1個とかを求めに。うちのいいところは、セット販売ではなく、どれでも1つから買えるところ。1つでも遠慮なく来ていただきたいですね。また、開店のお祝いや集まりで配りたいなど、お客様のご要望に応じて、包装なども承っています。数によっては包装紙代をご負担いただいていますが、手間を惜しまず、お客様が便利に使っていただけるお店でありたいと思っています。これからも末永くよろしくお願いします!

―今日はお忙しいところ、ありがとうございました。

「うさぎや」の人気商品

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うさぎや
住所 杉並区阿佐谷北1-3-7
電話 03-3338-9230
営業時間 9:00-19:00
定休日 土曜・第三金曜

※本記事に掲載している情報は2019年1月24日公開時点のものです。閲覧時点で情報が異なる場合がありますので、予めご了承ください。